丑(うし)

丑 干支の由来

【うし】
肉は大切な食料に、力は労働にと社会に密接に関わる干支です。

粘り強さと誠実

牛は、農業の神様である天神様の乗り物として知られています。 また、天神様は学問の神様でもあることから、 牛もまた学業成就のお守りとして用いられるようになったのだとか。 潜在的な才能やセンスを伸ばしてくれるパワーがあると言われていますよ。 また、赤ん坊の健康を守ってくれる風水グッズとして 「赤べこ」も広く用いられていますよね。 牛は北北東を関連の強い動物なので、 インテリアアイテムとして置くのであればこの方角がベストです。

「丑(うし)」は「紐(ひも)」からきています。 紐がからまる様子が、種から芽が出始めた草木が、うねうねと地中の中を這う様子に似ているので、その季節にあたる月=1月(旧暦12月)が、この名前で呼ばれる事になり、その性質が従順で忍耐強く、ジッと我慢して芽が春を待つ感じをイメージするところから、動物では牛が選ばれたのです。

丑の動物:牛

  • 丑の月:旧暦12月
  • 丑の時刻:午前2時を中心とする約2時間
  • 丑の方角:北北東よりやや南寄り
  • 五行:土気
  • 陰陽:陰
  • 意味:芽が種子の中に生じてまだ伸びることができない状態を表します。

干支の話では、牛はネズミと対照的に好感を持って描かれています。 自分が遅いからと1日早く出て、一番早くに神様の下に着きます。 自らの足の遅さを自覚して、早く出るのです。 ネズミには出し抜かれましたが、その粘り強さ、忍耐力、努力する姿勢が認められて、2番目になったのでしょう。 牛は古来より、家畜として重宝されてきました。 その肉はどこの部位も無駄なく食され、食用ではない乳牛からは乳を搾り、骨や皮なども様々なところで利用され、牛車などではその力で車を牽いて人々の交通手段や農耕用にも用いられました。 牛糞などですら燃料や肥料に使われるのです。 また、外国でもロデオや闘牛などのように、興行や競技もあるぐらいです。 そのように、牛はずっと人々と密接な関係を築いてきたのです。 それで牛が人々から好感を持たれているのかもしれません。 牛と言えば、いつも何かを食べているイメージありませんか? 牛は一度飲み込んだ食べ物をまた口に戻して再度食べる『反芻』をする生き物です。 牛には胃が4つもあります。 胃液があるのは4つ目の胃だけで、他の3つは食道が変化したものです。 何度も噛んだり唾液と混ぜたりして、消化を助けるのです。 消化に時間がかかるので、反芻しているのです。 決して、食いしん坊だからというわけではありません。

インドに行って一番驚くのが、牛の多さです。 街の中に普通に牛が生活しています。 それも誰かに飼われているとかではなく、野良の牛が街中を歩いているのです。 それも、日本で目にする犬や猫よりもはるかに多くの数の牛が。 人々はそれを特に気に留める様子はありません。 そこに牛がいることが彼らには日常のことなのです。 インドでは8割がヒンドゥー教です。 ヒンドゥー教では、牛は神聖なものとされています。 ヒンドゥー教の創造と破壊の神『シヴァ』が牛に乗っていて、そこから神聖化されました。 そのため、ヒンドゥー教では牛を食べることなどありません。 殺すと罪に問われ、触ることすら恐れ多いと考えます。 それで街中を牛と人が共存しているのです。 牛は全てを創造する大地を表すものとされ、インドでは最も崇拝されている動物なのです。 あの牛の落ち着き、大地を表すと言われれば、そう思ってしまいます。 ちなみに、インドと言えばカレーですが、インドでビーフカレーはほとんど食べられません。 宗教によってマトンやチキンの入ったカレーはありますが、インドでは基本的には野菜のカレーが多いようです。


丑の神様

◯牛は神様のお使い

宗教と牛の関係
 古来より、牛を神の化身あるいは神の使いとしてとらえている宗教は多い。中でもヒンズー教は有名。
インドを中心に広く信仰されている民俗宗教の総称で、諸宗派に分かれる。どの宗派にも共通しているのが「牛は神の動物」という認識だ。
そのためヒンズー教徒は決して牛肉を食べない(実際に嘔吐する人もいるほどだ)、日常生活でも牛を敬っている。
1996年10月にも、狂牛病をおそれたスイス政府が23万頭の牛を処分する計画を発表するやいなや、ネパールに本部がある世界ヒンズー協会が、面倒をみる費用負担を条件に、ヒマラヤで23万頭を引き取るとの書簡をスイス政府に送り話題になった。

 これほど極端でなくとも、牛が神の化身として描かれる宗教は多い。
仏教でも「牛頭天王」が信仰されている。これは牛の頭を持つ憤怒相で表される神で、祇園精舎の守護神とも言われる。
日本では厄除けの神として京都の八坂神社などに祀られている。


◯天神様の牛

天満宮、いわゆる天神様は、学問の神様として知られる菅原道真を祀った神社です。
 平安時代の学者であり政治家でもあった道真は、藤原氏に疎まれて無実の罪を着せられ、九州は太宰府に流されました。

 道真が亡くなった後、都で次々と異変が起きたため、道真の祟りと考えた朝廷がその霊を鎮めようと社殿に祀ったのが天満宮の始まりだそうです。
 現在では、道真と特に縁が深いとされる京都の北野天満宮、山口の防府天満宮、そして福岡の太宰府天満宮をはじめ、全国各地に天満宮が設けられ信仰を集めています。

 この天神様の境内にかならず置かれているのが、地に伏せた牛の像です。
 その由来はといいますと、道真は承和十二年、乙丑(きのとうし)の生まれということもあって、牛を特別可愛がっていたとか、道真が亡くなった際に、その遺体を牛車にのせてゆく途中で、牛車を曳いていた牛が地面に伏せて動かなくなり、その場所に墓を築くことになった、などの道真と牛にまつわる数々の言い伝えがあり、牛は天神の使いとされているのです。
 通称「撫で牛」と呼ばれているこの像は、撫でてから願掛けをするとそれがかなうとか、自分の体で痛みのある部分と同じところを撫でると快方に向かうといわれています。
 年が明け、受験も控えた今の時期は、全国の天神様で多くの参拝客が撫で牛に触れ、手を合わせる姿を見ることができるでしょう。


◯牛神様

山田集落の高所にある保食神社は、保食大神を祭神として祀っていますが、通称「牛神様」と呼ばれ、御神体は石だそうです。
『生月村郷土誌』には次のように記されています。
「昔、三吉という男が鋤の神という場所(現在、3基の風車がある丘)に草刈りに行き、刈った草を牛に背負わせた時、片荷にならないよう鞍の片側にその場にあった石を乗せて家に帰った。その石を牛小屋の前に捨て置いたところ、翌朝には石が主屋の戸口の前に移動していた。邪魔に思って庭の隅に置き直しても、翌朝には再び戸口の前に戻る。これが数回に及び、不思議に思った家人が神主に神託を伺ったところ、その石は牛の病気やけがを治し、牛を保護する霊があるとの事だった。それを知った村人達はその石を「牛神様」としてお祀りするようになったが、その後、石は年々大きくなり、さらに子石(子神)も生まれるに至った」。
また明治の初め頃、度島の人数名が自分の所の祭神にする目的でこの石を盗み、夜中、船に乗せて漕ぎだした所、夜明けになっても船は殆ど進んでいないのに驚き、石を元の所に返したという話もあります。

 保食神社(牛神様)の大祭は、霜月(11月)の最初の丑の日で、比売神社の神主さんの神事があります。
山田で牛を飼っている家は、地区毎に数軒で組を作っていて、その日は組毎にお参りに来ます。各自で供物を重箱に入れ、ビール瓶に酒を入れて参拝するのが昔からの習わしで、重箱に入れたオゴク(御飯)や膾を神前に供えた後、先の人が供えてお祓いが済んだ供物を詰めて帰り、牛に食わせます。また刺身に藁縄の輪を通したものも供えました。
参拝の際にいただいたお札はウシマヤ(牛小屋)などに貼り、参拝後は、組毎に決めた宿に集まって宴会をします。
なお昔は、牛にもこの日休みを取らせたそうです。また年を越した正月11日には「牛の正月」が行われ、神事や、供物を供えて持ち帰ったり、お札を貼るなどは同じですが、個人で参拝する形で、昔は牛を曳いて参拝する人もあったそうです。
また大祭や牛の正月には、現在も、他集落から畜産農家の参拝がありますが、昔は的山大島や度島、平戸の南部あたりからも多くの参拝者が来ていたそうで、山田の人が、よそから参拝に来た知人を接待する風習もあったそうです。

牛神様については、キリシタンに関する別の伝説もあります。
禁教時代、ある潜伏キリシタンが、御神体を屋敷内の竹薮に埋め、その上に大石を据え、朝夕に人目を忍びつつオラショを唱えていたが、それに倣い、潜伏キリシタンであった他の村人達も信仰するようになったというものです。
また牛神様は、生月と下方(平戸島中南部)の潜伏キリシタンの秘密の集会所になっていたという伝説もあります。
伝説の確認はにわかには出来ませんが、確かに山田集落のかくれキリシタン信者が多く氏子になっていて、また日草のかくれキリシタンの垣内(組)の中には、年末の「終い寄り」行事と元旦の「初寄り」行事の時に、男性が御前様の前でオラショを唱える間、婦人達が牛神様を詣る習慣を持つ所もあります。
また、伝説で三吉が石を拾ったとされる鋤の神も、昔、かくれキリシタン信者が雨乞い行事をしていた聖地であることも、やはり何らかの関連を感じさせます。


◯長崎県五島列島

ウシ(ウヒ)ガンサンと呼んで五島の至る所に祀ってある。いかに五島が牛のメッカであるかということが判る。
多くは生産の神様として大日如来を祀ることが多いが、牛の像を祀っていることも少なくない。
崎山山城神社に奉納するヘトマトの祭の大草履には牛に履かせる小草履をいくつか結び付けてある。
同様に藁で編んだ大きな足半(かかとのない草履)を奉納する長手神社にも牛を祀った祠が社殿右奥にある。
吉田大山祇神社も綱引きを終えた綱を奉納するが、そこにも大きめの牛の像が鎮座しており、その日に40cm位のわら草履を作って奉納している。
畑や田を耕し、子牛を生産する牛への感謝の気持ちを、休息を与えるための足に履かす草履に託して捧げていると思われる。
上五島の青方神社にも石造りの牛が奉納されている。幾久山天福寺入り口の祠の中や、上大津殿川近くの古い石積みの祠などには小さな牛の像が数体置かれている。
富江職人町公民館近くには、大日如来石像と金神(荒神)の石像に、牛の角にまく鉢巻きと鼻ぐりが巻いてある。明治32年、昭和16年の銘があるという。
また横が倉の八幡神社にも牛の彫刻3体、田の江大山祇神社前の水田の畔に頭に角をつけた牛頭天王の石像がある。その他唐船の浦や戸岐首にも、大日山の山頂付近にも勿論ある。


◯市指定文化財 八坂神社の神使(牛一対)

古来、我が国の神社には、その祭神に縁故の深い鳥獣虫魚をその神使とし、これを信仰する習俗があった。
東金市内には日吉神社の申、鹿渡神社の鹿、八坂神社の牛等がその代表的なものである。  八坂神社拝殿前の1対の牛は、その像長88センチ、像高45センチの石造で、寛保三癸亥(1743)6月7日、粟生村(九十九里町)飯高十郎右衛門他4名の寄進によるものである。
 日本神話によれば、八坂神社の祭神素戔鳴尊は、牛に乗り天界より出雲国に降り、其の地で農耕に牛を使役して、大いに治績を挙げたという。
当社はその故事にならい、往古よりこれを神使と崇め絵馬にもえがき、氏子庶民の信仰を集めて今日に至っている貴重な文化財である。

所在地 松之郷1269
所有者 (管理者)八坂神社
指定年月日 昭和59年4月17日
区分 有形文化財(彫刻)
その他 2基


◯田倉牛神社(備前市)

【祭神】
牛頭天王

【別名、愛称】
牛神社

【所在地】
備前市吉永町福満994−1

【牛の神社】
備前市の『田倉牛神社』(たくらうしがみしゃ)は、何も知らずに行くと、仰天してしまうような独特の習慣のある神社です。  まず近くにある駐車場へ車を停め、鳥居へ行くまではごく一般的な神社です。  ですが、その先へ進んでも、社殿に相当するような建物は見当たりません。  そこにあるのは、遠目に見ると石を積み重ねたような小さな山だけ。

 しかし、これこそが田倉牛神社の御神体が安置された神座なのです。  よく見ると、小さな山の上には石で彫られた牛の彫刻があります。これが田倉牛神社の神体です。  そして山のように見えていたのは、奉納されたおびただしい数の備前焼きで作られている牛の像なのです。

 どうしてこのような形になったのかは、次の項でご説明します。

【牛の恩返し】
 田倉牛神社の祭神は牛頭天王であり、元々は牛馬の健康を祈るための神社でした。  そうした事情から、田倉牛神社には少し面白い習慣があります。

 参拝に来た方は、鳥居の近くにあるお店で小さな牛を購入します。  それを持って御神体の牛がある場所まで行き、そのまま奉納します。  そして先に積まれていた牛の中から、インスピレーションを感じる一体を持ち帰ることが出来ます。  そして願い事が叶うまで、その牛を大切に持っておくのです。

 やがて願い事が叶った暁には、その牛を返しに行くのですが、この時にお礼の意味を込めて、もう一体の牛の像を一緒に奉納します。  要するに、誰かの願いが一つ叶うたびに、田倉牛神社には二体の牛の像が増えていくのです。  その結果が、上の写真にもあるような山のように積まれた牛の像です。  あえていうなれば、あの山はそれだけの願い事が叶ってきた証拠です!  …これは、効くぜぇ?  この神社はかなり願い事を叶えてくれるぜぇ!?

【その他】
 ちなみに現在は牛馬の健康のみならず、家内安全、五穀豊穣、交通安全といった様々な願い事を聞き入れて下さるそうです。  少し歩かなくてはならないですが、近くにお立ち寄りの際には是非とも参拝していって頂きたい神社です。 神社の管理は神職はおかず、地元の方が行っているそうです。  1月、5月、9月の5日は大祭で、特に初詣の際には非常にたくさんの方が参拝され、お店なども沢山出て賑わうそうです。


◯牛倉神社

 牛倉神社は駅通り(県道35号四日市場上野原線)と甲州街道にはさまれるように位置し、参道は甲州街道の南面に沿います。
上野原村の鎮守で新町二丁目の所属です。創建年次は不詳ですが『甲斐国風土記残篇』に古郡幸燈明神、『甲斐国誌』では大宮牛倉明神と記されています。
「牛頭天王」から天王森とも呼ばれます。1566(永禄九)年の加藤景忠氏の棟札以下、1604(慶長九)年、1622(元和八)年、1645(正保二)年、1672(寛文十二)年の棟札が『上野原町誌』に収録。祭神は保食神・誉田別命・須佐之男命・経津主命・武甕槌命・天児屋根命・神祖熊野大神櫛御気命・厩戸豊総耳皇子命・護国の英霊と多数です。

 境内は約1350坪(4463平方メートル)で、本殿以外に、「撫牛」や「聖徳社」、「楠木正成像」、それに多くの木々あります。普段の境内はひっそりと静かです。

 撫牛は、本殿に向かって右脇にあり、次のような案内碑が建てられています。
「古来よりウシは多産豊饒の神の使いとして神聖視されてきました。この神牛を常に撫でれば穢れや災いを祓い除き、吉事を招くと言われています。また痛む処のある人は、自分の患部を撫で、その手で神牛の同じ個所を撫でさすれば、たちまち病気が平癒するとも言われております。」
 聖徳社は本殿からややはなれた境内の片隅にあります。案内板には次のように記されています。
 「聖徳社 例祭日 一月二十二日 九月二十二日 御祭神 厩戸豊聡耳皇子命(聖徳太子)

 皇子命は皇紀一二三四年(西暦五七四年)人皇三十一代用明天皇の第一皇子で厩戸皇子上宮太子とも称され幼少よりご聡明で内外の学問に通じられ推古天皇の御即位とともに皇太子となり摂政としてご活躍され冠位十二階・十七条憲法の制定・国史の編纂また社寺の建立等平和日本の國造りに努力されたことはよく史実が物語っており、私達の片時も忘れることの出来ないお方であります。ことに大工・左官・指物師・鳶職・ブリキ・畳職等の職人・建設業の間では「職人の神」「萬工の祖神」として仰がれ祭られてきました。この御社は上野原太子講保存会により創建されました。」
 楠木正成公像は1940年の皇紀2600年記念事業として建てられたようです。
台座には「忠臣大楠公之銅像」と「七生報国 陸軍大将本庄繁謹書」と刻まれています。
本庄繁大将は満州事変に関わり、戦後A級戦犯指定を受けたものの、自決し裁判を免れました。上野原にも戦争の時代があったことを感じさせます。
「金鵄輝く日本の栄えある光身に受けて…」静けさの中に、どこからともなく歌声が聞こえてくるようです。


◯石神神社(いしがみじんじゃ)

宮崎県西臼杵郡高千穂町
 古老の口碑に三毛入野命(高千穂神社・十社大明神)の使牛を、社傍におまつりしたのが創建の由来といわれている。
依って里人は牛神明神と称して信仰してきた。牛馬の守護神としての信仰が厚い。
 『日向地誌』によると、旧称石神大明神と称していたが、明治四年に野方野神社と改称し、さらに、昭和二十八年五月石神神社と改称した。
 昭和四十五年四月、大字岩戸八三二四番地にご社殿、神楽殿、手水舎、社務所を造営移転した。


◯龍と牡牛

 世界の神話や考古学を検討していると、世界の神は龍と牡牛に 二分されることに気付いた。

 圧倒的にアジア世界は龍信仰に彩られ、西洋はほとんどが牡牛の支配下にある。と言っても牡牛の信仰なんて聞いたことがないよ、と首を傾げる人が大半だろう。
意外に思われるかもしれないが聖書に登場する神は牡牛なのである。これははっきりと旧約聖書に記されている。
モーゼが神から十戒石を授かるために何日もシナイ山に登っていたとき、麓で待っていたユダヤの民たちは帰りを待ち切れずに神の偶像をこしらえた。

神はそれを眺めて激怒した。偶像を作ってはならないと強く戒めていたはずなのに指導者のモーゼが側に居ないと民たちは直ぐに身勝手なことをする。モーゼもそれを知って絶望した。
有名なエピソードなのでこれ以上は記さないけど、問題は神の偶像がどんな姿をしていたか、にある。
聖書は明確に黄金でかたどった牡牛の像だと説明している。神は牡牛に似ていると当時の民たちは意識していたのだ。
そればかりか、シナイ山から戻ったモーゼの頭には神の象徴である角が生えていたという箇所もあるのだ。
近年ではモーゼに角を生やした姿を描くことをしないが、ルネサンス時代辺りまでの絵には角の生えたモーゼがしばしば見られる。

聖書以外にもクレタ島のミノッソス宮殿には知恵のある牡牛の伝説が残されているし、バイキングは牡牛にとっての仇敵とは龍である。ドラゴン退治の伝説が西洋の各地に見られるし、聖書における悪魔も龍の姿で描かれることが多い。
一方、アジアは龍の世界だ。釈迦は蛇(龍の変形)を信仰するナーガ一族の出身であるし、中国は龍の化身によって国が興されたという伝承を持つ。ブータンの人々は龍の子孫だと主張している。
我が日本にも龍神信仰が根強い。これを単なる文明の差と片付けていいものだろうか。

一つの仮説を提案する。
龍と牡牛はもともと同族ではなかったのかという仮説だ。
龍にも牡牛にも角が生えている。それに聖書では悪魔も本来は神の仲間だったと説明している。人間に知恵の実を授けたために創造主が怒って、その神を人間の暮らす地上へと追放したと書いているではないか。
つまり、宇宙人の仲間割れが龍と牡牛の対立として伝えられているのではないか、と推理したわけである。彼らは人類を傘下に加えつつ、地球を二分しての闘争をはじめたのだ。
この仮説を基に神話を分析をすると面白いように筋道が見えてくる。日本の神話も例外ではない。
古くはヤマタノオロチ(すなわち龍)の支配していた国をスサノオが退治するところから新しい国作りがなされている。

スサノオの別名は牛頭天皇。 まさに聖書と同一の展開なのである。


◯インドの聖牛

インドで牛は神様と考えられ、その肉は食されることはない。
インドの街中には牛が寝転がっているが、インド人の運転手はその牛が通りすぎるまで待つ。
ムンバイには数え切れないストリートチルドレンがいる一方で、インド全土には、老いた牛、病気になった牛の面倒を見るゴーシャラという施設が3000もある。
一体それはなぜだろう。インド人にとって牛とは、どんな存在なのか。

紀元前1000−1500年に編纂されたインド最古の教典、リグヴェーダには、世界を干ばつから救ったインドラ神の話がある。
その昔、悪魔は天上に世界中の川の水をせき止め、世界を無秩序なる干ばつに陥れていた。
その悪魔を、インドラ神は剣で切り裂いて退治する。
それと同時に天上の水は解き放たれ、牛の大群とともに一気に流れ出した。
それらの牛は全て身ごもっており、そこから太陽、大地、植物、動物など宇宙の全ての要素が秩序を持った形で生れたという。
インドで、牛が全ての根源と考えられる由来である。

この世の秩序を生み出した牛は、宇宙として見なされる。その牛の4本の足は、それぞれ宇宙の四隅に立っており、宇宙空間全体を包み込んでいる。
この状態の時は、宇宙は秩序ある状態で機能しているが、時間が経つにつれ、牛の足は1本ずつ宙に曲げられ、4本目の順番になると宇宙の秩序は全て崩壊してしまう。
その後宇宙は再生を始め、牛は再度その四隅に足をおくという。
つまり、ヒンズー教徒にとって、時間と空間と秩序の認識の仕方は、宇宙と同一視される牛と深い関係がある。

'牛が全てのものを与えてくれる'というのは、現在でもインドの農村地帯においては、明確に当てはまる。
インドの農民の生活は、牛が与えてくれる5つの聖なるものと強く結びついている。その聖なる物とは、

1.ミルク
2.ギー
3.カード
4.牛糞
5.尿
である。

【ミルク】
牛のミルクは、農村地帯に住むインド人にとって重要な食物である。ミルクからヨーグルト、ギー、カードなどが作られるのみならず、牛のミルクを飲む者は頭が聡明になり、体は俊敏に動くようになり、感情は安定し、穏やかな性格の持ち主になると言われる。また、牛のミルクを讃える感謝の歌がある。私は、よく行く市ヶ谷のインドカレーレストランに行って店員にそのことを尋ねてみた。

'インドには、牛のミルクを讃える歌があると聞いたのですが、、。'
'あー、アルネ。知ってるヨ。'
と言う。 '本当ですか? 是非聞かせてもらいたいのですが!'
'んー、でも真面目なの違うヨ。コメディアンが歌ってる。'
私は、なんじゃそれはと思いつつも、頼んで歌詞を教えてもらった。それは、 "バルラムさん、牛を持っていて幸運だ。 ミルクを売ってお金をつくることができる。 ミルクを薄めてごまかして売っても、まだお金を作ることができる。"
というものであった!

【ギー】
ギーは、通常のバターからさらに水分を飛ばして作る飽和脂肪酸のみを含有するインドの澄ましバターである。
冷蔵庫にいれなくても長期保存が可能なため、インドでは太古の昔から料理には欠かせなかった。
アーユルヴェーダの薬を取る時も、ギーを用いると有効成分が油脂に溶けて、体内への吸収効率がよくなる。
また、ディワリのお祭りに使われるろうそくはギーが原材料であり、火の神アグニへはギーをお供えする。
またヒンズー教徒としての洗礼を赤ちゃんに施すときにもギーを用いる。
つまり、ギーは食卓にも、治療にも、信仰にも欠かせない牛からの贈り物なのである。

【カード】
インドでは、カードはヨーグルトのことである。
ミルクに乳酸菌が作用して作られるヨーグルトは、インドの飲み物であるバターミルクとラッシーには欠かすことが出来ない。
バターミルクとは、クリームからバターを取った後の残り成分、あるいはヨーグルトを水で薄めたもので、南インドでは食後に1-2杯のバターミルクを飲んで胃を落ち着かせるという。
またバターミルクとごはんを軽く混ぜ合わせたものを食すこともある。
北部インド、パンジャーブ地方由来のラッシーには、様々な種類がある。ローズウォーター、レモン、いちご、砂糖などで味を付けたスウィートラッシー、バターを混ぜたマクハニアラッシー、クミンと塩だけで味付けしたチャースラッシー。
毎年春に行われるヒンズー教のホーリー祭には、マリファナの成分が含まれたバンラッシーが飲まれる。

【牛糞】
2億頭の牛を擁するインドでは、日本の年間米生産量の約10倍である8億トンもの牛糞が毎年生じる。
そしてこれは、ゴミではなく牛から与えられる聖なる物の1つである。
牛糞には殺菌作用があり、牛糞と粘土を混ぜて作った土壁の家には、虫やは虫類が入ってこない。
そのため牛糞を外側に塗った土製の容器に穀物を保存することがある。また牛糞は団子状に手で丸めて燃料として用いる。
この牛糞団子は、一定の温度でゆっくりと燃え続けるため、煮込み物などを作るには最適の燃料なのだ。牛糞団子からは燃えるときに、独特の薄紫色の煙が出る。
この煙は、国際線パイロットには発着時の視界を妨げると悪評されているが、インドの初代大統領ネルーは、その薄紫色の煙が民家の煙突から立ちのぼる風景をガンジス川越しに見て、'我が祖国の平和な姿これにあり'と感涙せずにはいられなかったという。
牛糞が燃えた後の灰には、さらに火の力が宿るため非常に尊ばれる。ヒンズー教の修行者は、この灰を体に塗ってシヴァ神と同一化するために祈る。

【尿】
ヒンズー教徒にとって、ガンジス川は何よりも神聖で尊い。
ガンジス川で、身を清め、死んだときには自身をガンジスに流してもらうことを望む。
そこには、上流の集落からの生活排水、糞尿、動物や人の死骸などありとあらゆる物が流れてくるため、世界一コレラ菌濃度が高いとも言われるが、ヒンズー教徒にとっては絶対的に清らかな川なのだ。
ガンジス川の水を汲み取った物をガンガジャールと呼び、信徒はこれを村に持ち帰り、様々な神事に使う。
そして、牛の尿にはガンガジャールの成分が含まれていると考えられているため、尿も井戸を清めるといった儀式に用いられる。

【パンチャガーブヤ】
上記の5つの聖なる物にはそれぞれ薬効や清浄化作用があるので、これら全てを混ぜ合わせたパンチャガーブヤはさらなる力を持つとされる。
配合比率は、尿50ml、牛糞50mgを混ぜて布で漉した後、20mlのミルク、20mlのカード、15mlのギーと合わせるのが良いとされ、慢性疾患の改善のためには、パンチャガーブヤを飲むことがアーユルヴェーダにも勧められている。
また最近の科学分野において、パンチャガーブヤの薬効が分析化学的側面から実証されつつある。

この話を聞いて、普通の日本人なら'そんな馬鹿な、'と一笑に付するだろう。
しかし、視点を変えて見ると、納豆にダイエット効果があるというのは、外国人には'そんな馬鹿な、'と笑われることなのではないだろうか? 
2007年1月あるテレビ番組で納豆のダイエット効果が報道され、多くのスーパーで納豆の売り切れが相次いだ。
過剰報道だったこともあり混乱の波はすぐに収まったが、この事件は'ハイテク国民の間に存在する腐敗大豆への執着心!〜スーパーから消えるNATTO〜'という見出しで、Japan Times等に記事として書かれても不思議ではないのかもしれない。

【聖牛のお祭り】
インドでは、聖牛カマドゥヌと牛の守り神であるクリシュナ神を祝う祭がある。
クリシュナは、七日間の大洪水が起こったときに、牛飼い女と牛たちを守り通した偉神であり、またカマドゥヌは、全てを叶えることができるヒンズー教の神秘の牛である。
祭りの日には、クリシュナの化身をカマドゥヌの像から出るミルクで清め、双方の神に祈りを捧げる。
また、インド各地のゴーシャラでは、人々は牛たちに食べ物を与え神からのご加護があることを願う。

【聖牛批判?】
西欧の経済学者は、様々な試算をして「インドの聖牛」に関して批判を行う。
パンジャーブ地方では、年間400-500万頭の牛が肉や皮として有用に使われることなく死んでいる。
牛肉を食べるようになればインド人の栄養状態は大幅に改善される。
牛肉を貿易輸出品として扱えば、年間7億ドルの外貨獲得につながる、、等々。

インド政府も、これらの助言を受けて、特に牛肉輸出の可能性については考えない訳ではなかった。
しかし、ヒンズー教徒の、牛を殺すことへの絶対的罪悪感、嫌悪感、反対感情から、これらの計画は雲散霧消してしまうのだ。
もし、この聖牛信仰を変えることが可能なら、イギリスがインドを植民地にしていた400年の間に変えられたはずである。

経済理論では説明できない信仰の深さと不可思議さがここにある。
そして、牛を殺さないことに象徴される不殺生への深い帰依、輪廻転生が身の回りに存在する日常生活、そんな彼らが住む神の国インドに、世界中の旅人が魅せられてきたのではないだろうか。
信じるということの中にのみ、その人にとっての真実が存在する。


◯牛頭天王と蘇民将来

むかし、むかしあるところに牛頭天王という人がいました。
 もうそろそろお嫁さんがほしいなぁと思っていると鳩がやってきて「竜宮城へ行きなさい」と教えてくれました。 そこで、牛頭天王は竜宮城への旅に出かけました。
 途中、泊めてもらうところを探しているとこの辺りで一番のお金持ちの巨旦ごたんの家がありました。

【午頭天王と蘇民】
 牛頭天王が「一晩泊めてください」と言うと、巨旦は意地悪く「うちは貧しいから泊められないよ」と嘘をついて断りました。
 牛頭天王は困りました。しかたなく歩いて行くと蘇民将来の家に着きました。「泊めてください」と言うと貧しいながらも心優しい蘇民は「どうぞ、汚れていますが」と言って家の中に招き牛頭天王に粟のご飯をたいておもてなしをしました。
 次の日、出発する前に牛頭天王は泊めてもらったお礼に宝物の珠を蘇民にわたしました。この珠たまは、心の優しい人が持つとお金がたまるものでした。

 その後、牛頭天王は竜宮城に着いてお嫁さんをもらい、8人の王子のお父さんになりました。
8年ぐらいたったある日、自分の生まれた国に帰ることにしました。途中、また蘇民の家に泊まりました。
心優しい蘇民は長者さんになっていました。それをうらやましく思った巨旦も牛頭天王を家に泊めようとしましたが、意地悪は変わらなかったので、逆に次々と悪いことばかりおこりました。

  一方、蘇民はいつまでも幸せにすごしました。   牛頭天王という人は、悪いことを追い払う神様だったのです。
代々蘇民の家の人たちは、このとき牛頭天王が言われたように「蘇民将来」と書いた木を身に着けていました。
それがお守りとなったので幸せに暮らしたという言い伝えが残っています。
  この木のお守りが今現在は注連縄にとりつけられ家の玄関口で悪いことを追い払ってくれているのです。

*蘇民将来と巨旦の物語は「備後風土記」新編日本古典文学全集『風土記』〈小学館〉や『参宮名所図絵』〈臨川書店〉に残っており、ここではスサノオノミコトが蘇民の家に泊まったと伝わっています。
 今回「民話の駅 蘇民」のオープンにあたり、地元松下地区に伝わる町有形指定文化財の「牛頭天王儀軌之事」という元和6(1620)年に書写された巻物を引用しました。
この中では牛頭天王が蘇民の家に泊まったというお話になっています。数多い民話の伝承ではスサノオノミコトと牛頭天王は同じ人物であると言われています。

丑のことわざ

◯牛に引かれて善光寺参り

他の人に連れられて、ある場所へ行くこと。また、自分の意志からではなく他の人の誘いによって良い方向へ導かれること。

解説
このことわざは、次のような言い伝えがあるようです。
昔、長野の善光寺の近くに信心のない老婆が住んでいました。
ある日、となりの家の牛が、老婆の干しておいた布を角にひっかけて走り出したので、牛を追いかけて行くと善光寺の中へ 入ってしまいました。
老婆はここが霊場であることを知り、それ以降、善光寺へお参りするようになり信心深くなった、という ことらしいです。
善光寺の本尊は、とても古い仏像で、誰も見ることができない秘仏のようです。
また、なぜ牛に引かれるのかはよくわかりませんが、仏教と何か関係があるのではないかと思います。

◯牛の歩みも千里

歩くのが遅い牛でさえ歩き続けていけばやがては千里先の遠くまで行くことができるということで、毎日コツコツ努力を続けていけば大きな成果を得られるということ。

◯商いは牛のよだれ

牛のよだれは細く長く続くもの。
商売というものは、この牛のよだれと同じで、たとえ細くとも長く続けることを考えた方が成功するのだということ。

 確かに牛をよく観察していると、口元から常に粘り気のあるよだれを流しています。
牛は一日に50リットルから多いときには200リットルもの唾液を分泌します。
なぜかといえば牛はご存知の通り草食動物。草の葉や茎は固い繊維で覆われていて消化するのは実に大変。
ですから一度胃に入れた草を再び噛み直す「反芻」という行為を行ないます。
粘り気のあるよだれは消化を促す重要な役割を果たしているわけです。
昔の人も牛の口元を眺めてはその「粘り」に感心していたのかも知れません。

◯角をためて牛を殺す

「ためる」とは「矯める」と書き、直すという意味。少しの欠点を直そうとして余計に物事を悪くしてしまうこと。
 これは中国のことわざで、矯角殺牛(きょうかくさつぎゅう)といい、元は「玄中記」という本からきています。
漢の時代に時の皇帝一行が、山で見事な牛を捕え、その牛の角を記念にしようと斧を振り下ろした所、誤って殺してしまったとか。
 この故事が転じて、少しの欠点を直そうとして全体をだめにすると言う意味になったようです。

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