申(さる)

申 干支の由来

【猿】
山の賢者で、山神の使いと信じられていました。信仰の対象としても、馴染み深い動物です。

器用で臨機応変

「邪気を払うお守り」という意味では、 十二支の中では猿グッズが最もオススメ! 風水では東北の方角を「鬼門」と言い、 「邪気が入ってくる」「気のバランスが乱れる」と考えられていますが、 この方角に猿グッズを置くと、邪気を封じることができるのです。 また、夫婦円満や安全祈願のお守りとしても 猿グッズは頼もしい力を発揮してくれるそうですよ!

申の動物:サル(猿)

  • 申の月:旧暦7月
  • 申の時刻:午後4時を中心とする約2時間
  • 申の方角:西南西よりやや南寄り
  • 五行:金気
  • 陰陽:陽
  • 意味:果実が成熟して固まって行く状態を表します。

サルは人に似て、賢い動物です。 賢いが故に、あまり家畜やペットなどとして飼われませんでした。 大人になると気性が荒くなり、飼うのが困難だからです。 また、食用にもされていましたが、人と似ているがためにその食文化も廃れていきました。 人と似ていたり、その賢さから、サルはひとと共存してきました。 ある時、サルが石で遊ぶようになりました。 その遊びはその周りで少しずつ流行っていきました。 と、ある程度そこで流行った頃、全く離れた違う山のサルの間でも、その石遊びが流行したのです。 もちろん、その二つの地域のサルには交流はありません。 他の地域でも同じ時期に石で遊ぶようになりました。 同じような事象は、外国でもあります。 ほぼ同時期から各地のサルたちが芋を洗って食べるようになったというのです。 これはシンクロニシティ(共時性)と言います。 新しい行動を受け入れたその生物が増えていき、ある一定の数を超えると、その行動はその生物の全体まで爆発的に広がっていく、というのです。 つまり、どこかのサルが新しい行動を始めると、それが遠く離れたサルたちにも伝わるのです。 これはサルだけに当てはまるものではありませんが、サルにはこのような話がいくつかあります。 そうやってサルは少しずつ賢くなっていっているのかもしれません。 いつか世界のサルがいっせいに喋りだしたらどうしましょう。 人もサルに追い越されないようにしないといけませんね。

サルは去るというところから、悪いことから去ると言われ、守護的な動物とされていました。 風水では鬼門の守護神とされ、鬼門に向けて、あるいは玄関などに置物を置けば災いから護ってくれるとされています。 愛知県の日吉神社ではサルは神の使いとされ、狛犬のように一対のサルが拝殿前にいます。 豊臣秀吉の母はこの神社に祈願して、子を授かりました。 そのため秀吉は神の子と言われ、幼名を日吉丸とここの神社から名づけられました。 その姿がサルに似ていたこともありますが、そのような出生だったこともあってサルと呼ばれていたのです。 この神社に祀られているサルは神猿(マサル)と言われ、『魔去る』『勝る』などと縁起が良く言われています。 また、有名なのは日光東照宮の『見ざる、言わざる、聞かざる』のサルでしょう。 日光東照宮のサルはこの3匹が有名ですが、実は『猿八態』と呼ばれる8面の彫刻の一つなのです。 全てを見ると一生を表していて、『見ざる、言わざる、聞かざる』は幼少期の頃の教えで、『子供の頃は悪いものを見ない、言わない、聞かないで素直に育ちなさい』という教えなのです。 ここでもそういった悪いことから護ってくれているようですね。


申の神様

◯山王=大山咋神(オオヤマクイノカミ)の猿

日吉大社の祭神、大山咋神(オオヤマクイノカミ)は、「山王権現」とも称される。
また比叡山の地主神でもあり、山王と比叡山のイメージから「猿」が神使とされた。
猿像には、「神猿像」と「子連れ夫婦像」の二つのタイプが゙ある。


【日吉大社】
大津市坂本にある日吉大社は、全国3800社といわれる山王系神社(日吉神社、日枝神社、山王神社など)の総本宮である。
日吉大社は大山咋神(東本宮)、大巳貴神(西本宮)の二神をを祀る。
山王とは山の神を意味し、また日吉=日枝で比叡山のことをいう。
なお、東京永田町の江戸山王日枝神社は徳川家歴代の将軍に崇敬された。
(滋賀県大津市坂本5-1-1)
日吉大社・西本宮楼門の四隅の棟をそれぞれ猿が支えている

【大山咋神(オオヤマクイノカミ)について】
日吉大社の祭神・大山咋神は、「古事記」に「大山咋神(オオヤマクヒノカミ)。またの名は山末之大主神(ヤマスエノオオヌシノカミ)。この神は、近淡海(ちかつおおみ)国の日枝山に座す。また葛野(かずの)の松尾に座す。鳴鏑(なりかぶら)になりませる神なり」
とあるように、近江国(滋賀県)の日枝山(比叡山)に鎮まったのが最初で、後に松尾に鎮座した。
治山、治水、農耕の守護神とされた。 大山の主であり、比叡山(天台宗・延暦寺)をはじめ、広く地主神として祀られ崇められる。

【山王(大山咋神)の神使は「猿」】
大山咋神(山末之大主神)の、山の神(山王)という神格と比叡山の猿とが結びついて、猿が山王の神使になったとされる。
猿像には下記の?・?、二つのタイプがある。公私の両面を表わしている像ともいえる。
?「神猿」像〜烏帽子をかぶり、正装して御幣・鈴などを持つ
「神猿」と書いて「まさる」と読む。 「まさる」は「魔が去る」または「勝る」の意であり、厄除け、魔除け、守護にご利益があるとされる。

B「子連れ夫婦」像〜片方が子猿を抱き、桃など持つ
猿は繁殖力、分娩の軽さ、子供への愛情の強さなどの性質から夫婦円満、子授け、安産、子育て、家門繁栄にご利益があるとされる。
なお、桃を持つ猿像もあるが、桃は邪気を払う力を持ち、不老長寿の得られる食べ物とされる。
「子連れ夫婦」像の由縁〜なぜ猿像は夫婦とされ、対の片方は子猿を抱いているのか?

「夫婦で子連れの猿像」は、猿の家族的愛情表現だけではなく、古事記の大山咋神は「鳴鏑(なりかぶら)になりませる神なり」(前述)の故事に基づくものと思われる。
加茂玉依姫(タマヨリヒメ)が川遊びをしていると、川上から丹塗りの鏑矢(かぶらや)が流れてきた。
姫はこの矢を持ち帰り、寝床に刺し置いたところ、妊娠し男子を出産した。
この子(別雷命=ワケイヅチノミコト)の父神が誰だか判らなかったが、成人式の時「お前の父神に酒をあげなさい」と言われると、別雷命は杯を持って天に昇っていったので、父神が大山咋神であることが判った。(大山咋神が鏑矢に化身していたことが判った)
この故事から、大山咋神(日吉・松尾大社の祭神)と加茂玉依姫(下賀茂神社の祭神)とは夫婦とされ、両神の子は加茂別雷命(上賀茂神社の祭神)とされた。
なお、この話には類似の諸話もあって大物主神にまつわる話だとも、父神は火雷命(ホノイカヅチノミコト)であるともいわれる。


◯飛騨の猿神

 北陸へ向かって旅をしている男がいました。

 都で立ち行かなくなり、越後にいる縁者を頼って行く途中でした。どこをどう間違ったのか、家仁はいつの間にか山に入り込み、人家を探して歩けば歩くほど、山深く迷い込んで行きました。困った家仁は山の中で一夜を明かし、日が昇ると川沿いに下っていきました。
木の葉の積もった山の斜面を滑るように歩いていくと、目の前に大きな滝が行く手に現れました。引き返そうにも道はなく、家仁は濡れた岩に手をかけ滝つぼに落ちないよう、ゆっくりと向こう側へと進みました。

 すると不思議な事に家仁のいる場所から下の方を荷を背負った男が歩いて行き、ごうごうと流れ落ちる滝の中へと消えていきました。家仁は不思議に思いながら、男の通った道に滑り降りると、男の消えた滝の辺りを探りました。
 そこには洞窟があり、その中を進むと、山の斜面に出ました。坂の下には人家が建ち並び、その向こうには田や畑がゆたかに広がっていました。家仁はどこかで食べ物をわけてもらおうと降りて行くと、さっきの荷をかついだ男に追いついたのです。

その男は家仁を見るとあっと驚いたような顔をしましたが、
「山道をさぞ難儀された事でしょう。 どうか私共の家でおくつろぎくだされ。」 と家仁の手を取り、引っ張っていきました。 家仁はなにがなんだかわからないまま村の中に入りました。
すると大勢の人が出てきて、二人にまとわりつき、 「その方はどうされたのか?」と口々に訪ねました。
荷をかついだ男は、 「わしの家のお客人じゃ。これから我が家に逗留していただくのじゃ。」と、 嬉しそうに言い、自分の家に連れていきました。
 男の家では、家仁の来る事を知っていたのか、大勢の使用人が門の所で、出迎えました。男は家仁を家の中に招き入れると、自分の娘を男の側に座らせました。
 娘は佳志野と言う十八になる娘で、顔も姿も美しく、着飾った姿は公家の娘にひけを取りませんでした。娘は家仁を自分の夫のようにせっしました。
「ただ道であった私に、なぜこんなにしていただけるのでしょう?」
娘は少しうつむき、それから 「ここでは外からきた方が珍しいのです。」と答えました。
男は家仁の前にご馳走を並べ、まるで婚礼のようにもてなし、娘はご馳走が終わっても、家仁の側を離れず世話をしたのです。
夜になって娘が家仁の側を離れたすきに、主人がやってきて、 「娘はどうでしょう?」と聞きました。
「気の利くよい娘さんです。」と家仁が答えると、主人は顔をほころばせて、
「あの子もそろそろ年頃です。出来ればよい婿を迎えたいと思っていたのですが、どうでしょうか?」と家仁にたずねました。
家仁は京の町にいる時、閉ざされた山里や島では、近親結婚を避けるために外から来た男を迎える風習を聞いた事がありました。そういう事だったのか。家仁はやっと納得がいきました。
    家仁は村の中を歩き見て回りました。
佳志野は家仁について田んぼや畑、川や山を案内しました。山の中ではありましたが、田んぼも畑も充分にあり、魚も捕れ、狩りも出来ました。
暮らし向きに不自由する事も無く、自分にもやっていけそうな場所でした。
越後の縁者を頼って暮らすより、ここでこの娘と生きた方がよいのではないか?
家仁は屋敷に帰ると男に頭を下げ、入り婿になりました。
 家仁は家の仕事を手伝い、使用人と一緒になって田んぼや畑へ出ました。
慣れない事もありましたが、佳志野は家仁につきっきりで、知らない事や出来ない事を、教え手伝いました。何もかもが楽しい出来事でした。
家仁は月日を重ねるうち、佳志野の自分への愛情の深さを知りました。お互い何も知らないまま夫婦となりましたが、今では深い愛情を持つもの同士となっていました。そしていつしか八ヶ月が過ぎ、妻の様子が沈んできました。
明るく振る舞っているのですが、なぜか悲しげに見えるのです。そのうち里のものがバタバタと何か準備をはじめるようになると、佳志野は涙ぐむようになったのでした。
家仁は佳志野に何か心配事があるのか?とたずねました。それでも妻はただ泣くばかりでした。
「楽しい事も嬉しい事も、つらい事も苦しい事も、どんな事があっても、二人で分かち合えると思っていたのに、なぜ、一人だけで悩み話してくれないのですか?」
家仁の言葉に佳志野は、 「どうして、隠し事などしたいと思いましょう。あなたを深く愛さなければ、あなたをただ他所の国の方と思えれば、こんなに悲しい思いをする事もなかったのに。」 と言うと、泣き伏してしまいました。
「この国には恐ろしい神がお在りになるのです。毎年、一つの家に白羽の矢がたち、その家から生け贄を出すのです。今年は私の家に白羽の矢が立ちました。もし、あなたが来られなければ、私がその生け贄になるはずだったのです。」
家仁には何がなんだかわかりませんでした。 「父は私の代わりに誰か身代わりになってくれるものを探しに、滝の向こうへ行ったのです。もうじき、生け贄を出す時期が来ます。でもその時には、あなたではなく私が生け贄になろうと思っています。ただあなたと別れなければならない事がつらいのです。」
家仁は目の前で泣く妻を前にしばらく考え込んでいたようでしたが、妻の肩を抱いて起こしました。 「生け贄はどんなふうに行われているのです?」
佳志野は問われるままに答えました。 「生け贄となるものを裸にして櫃にいれ、山の上にある祠の前に置くのです。運び込んだ人が帰ってしまうと、神様が現れ食べてしまわれるのです。もし、生け贄が痩せていたりすると、田畑があれ、病人が出て、里のものに災いがふりかかるのです。」
「その神様を見た人はいるのですか?」
「噂では猿のような姿で現れると聞いております。」
家仁は少し考えた後、 「私によく切れる刀を持ってきてくれませんか?」 と言いました。
佳志野はすぐ刀を持ってきました。家仁は刀を念入りに研ぎ、その日のために隠し持っていました。
 生け贄を山の祠に差し出す日となりました。
家仁は佳志野の手伝いで身を清め、髪を整え、身だしなみを整えると、舅と一緒に山へ出かけて行きました。佳志野は門のところで二人を見送ると、家に入って夫の無事を祈りました。
 家仁は祠の前に着くと、自ら服を脱いで櫃の中に入りました。村のものは櫃の四隅に榊を立て、まわりにしめ縄をはると、急いで山から駆け降りて行きました。
 櫃の中には刀がしのばせてありました。家仁は刀を握ると、神がやって来るのを待ちました。
 櫃の中は真っ暗で何も見えませんでした。カラスの声が聞こえ、次第に空気が冷えて来ました。
日が沈んで行くのがわかりました。 櫃の向こうで草むらがガサゴソと音を立てました。
その音は四方からゆっくりと自分の入っている櫃の方へ近づいてきました。 家仁は飛び出すチャンスをうかがっていました。
周りの音がぴたっとやみました。 そしてひとつ、何かが櫃に近づいてきたのです。
 家仁は櫃を飛び出すと、鞘に収めたままの剣を、目の前のものにぶつけました。
それは「ぎゃ!」と声を上げてその場に気絶しました。
猿でした。 確かに普通のものより大きく年をえていましたが、猿だったのです。
「・・・やはりそうか。」 家仁はまわりにいる猿を睨みつけました。突然、何匹かの猿が飛びかかってきました。
しかし家仁は一匹をたたき伏せ、もう一匹の足に一撃を加えました。二匹の猿が地面をのたうち回りました。猿達はどよめき、遠巻きに家仁を囲みました。
「次は切るぞ。」 家仁はそう言うと剣を抜き、しめ縄を切り落としました。
そしてその縄で、倒れている大猿の手と首をしばると、頭を思いっきりけとばしました。
大猿はぎゃっと声を上げて起き上がりました。 家仁はかまわず大猿を蹴り上げました。
大猿は蹴られるたびに逃げ回りましたが、縛られたまま逃げる事も出来ませんでした。 猿の群れは自分たちの大将が痛めつけられる度におびえてじりじりと離れて行きました。
そのうち大猿は頭を抱えて座り込んでしまいました。
「ついてこい。」 家仁は猿を引いて村へ降りて行きました。
猿の群れは遠巻きに大猿と家仁の後をついていきました。
村では家仁が大きな猿をつれて山から降りてきたので大騒ぎとなりました。
佳志野は裸のままの家仁に駆け寄り、服を着せました。 村の人が二人を遠巻きに囲んでいました。
猿神を恐れていたのです。
「村の方々! この猿は神ではありません。 年をえて大きくなっていますが、神などではありません。牛や馬と同じく、人の自由になるものです!」
そう言うと家仁は大猿を叩きました。 大猿は再び「ぎゃっ!」といって頭を抱えました。
「村のものにわびをいれよ。」
大猿は恐れて何もしませんでした。
「わびをいれぬか!」 家仁は大猿を殴りつけました。 「わびをいれよ。」
 大猿は頭を地面にこすりつけ、泣きました。
村の人は猿神が頭を下げるのをみて、どよめきました。 「もう猿神などと恐れる事はありません。人に害を与えるのなら、退治すればよいのです。」
そう言うと家仁はまた大猿を殴りつけました。人を何人も喰い、長年にわたって村を困らせた猿でした。
「もし再び村や人によからぬ事をするようなら、きっと叩き切ってやるからそう思え。」
家仁はそう言うと大猿を離してやりました。大猿は遠くで見ていた仲間の元にヨタヨタと転がりながら逃げ込むと、そのまま消えて行きました。
 次の日、家仁は村の人たちと祠を焼き払いました。猿達は二度と姿を見せる事は有りませんでした。
心の中で猿におびえる村の人のために、家仁は滝の向こう人をへやり、犬の子を求めて里で飼いました。
 猿は犬を恐れると知った村の人は、家仁と佳志野から犬の子をもらい、里でどんどん増えて行きました。やっと里では平安な暮らしが訪れました。
 家仁は里の人と田んぼや畑の仕事をし、大勢の使用人を使い働きました。
里から滝の穴を通り、時々こちらに必要なものを求めて、やって来るものがあるそうです。
その者たちが言うには、そののち、家里と佳志野は仲むつまじく暮らしたということです。


◯猿丸神社

 〒610-0201 京都府綴喜郡宇治田原町禅定寺小字粽谷44
猿丸神社(さるまるじんじゃ)の社格は旧無格社。瘤取り(がん封じ)の効験あらたかと喧伝されており、近畿一円から参詣者が訪れる。
瘤(こぶ)とり祈願の神様“猿丸さん” 三十六歌仙の一人猿丸大夫を祀る。.
“猿丸さん”の呼称で信仰されて、この神は瘤(こぶ)などのできものに霊験があり、京阪神をはじめ各地から、たくさんの参詣者がある。
大祭は春秋2回、4月13日と9月13日で、毎月の13日を月の祭日としている。また、6月と12月の13日には「火焚き祭」が行われる。
境内前の駐車場では毎月の例祭日に地元の特産品を販売する「猿丸市」が開かれ、大勢の人で賑わう。
境内は近年、寄付によってモミジが植栽され、「奥山に〜」の歌にふさわしい紅葉の名所として11月には美しく彩られる。
猿丸大夫に関する伝説は日本各地にあり、芦屋市には猿丸大夫の子孫と称する者がおり、堺にも子孫と称する者がいたという。
長野県の戸隠には猿丸村というところがあって、猿丸大夫はその村に住んでいたとも、またその村の出身とも伝わっていたとの事である。


◯富士講・浅間神社の猿

【富士(山)信仰の神社、浅間神社の神使は猿。】
申(さる)の日に富士山が現れたとの故事に由来するなどとされる。
富士講・浅間神社、木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)と猿
浅間神社の浅間(あさま)は広義で火山を意味する。
富士(山)そのものをご神体とする信仰で、古来からの自然信仰(古代祭祀の原型)といえる。
全国の浅間神社の総本宮は、「富士山本宮浅間大社」で祭神は浅間大神(アサマノオオカミ)、木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)である。
富士講は江戸時代初頭には長谷川角行によって開かれていたが、その後継者村上光清、食行身禄(ジキギョウミロク)らの献身で、江戸時代中期に盛んになった。
文化・文政になると俗に江戸八百八十講といわれるほど数多くの講が組織され、頻繁に富士登拝が行われ、手軽に登拝できる富士塚も造られた。

申(さる)の日に富士山が現れたとの故事から、「猿」が神使はとされた。 また、単に「山岳そのものをご神体とする神の使いにふさわしい」から(山王の猿として)猿が神使とされたとの説もある。
富士講が盛んになる過程で、江戸時代中期にはすでに庶民の間で身近に信仰されていた山王信仰や庚申信仰、道祖神信仰の影響を受けて、「猿」が富士講の神使とされたともいえよう。
浅間神社の祭日は申(さる)の日で、特に初申祭は例大祭として盛大に行われる。
神使の猿像は、「富士塚や富士山の登り口付近に置かれたもの」と「山頂の社祠の前に置かれたもの」とがあり、前者は合掌して富士山(山頂)を拝む姿、後者は御幣や鈴を持ち社祠を参拝する姿をしている。

【富士本宮浅間神社】
「富士宮浅間神社記」によると、第7代孝霊天皇のとき、富士山が大噴火し、荒れ果てた状態が長期に及んでいたが、これを憂いた11代垂仁天皇が山霊を鎮めるために祀った(前27年)のがこの神社の創起とのこと。(静岡県富士宮市宮町1-1)
祭神、木花之佐久夜毘売命(木花開耶姫命)
木花…は、大山祇命(オオヤマウジノミコト)の娘で、天から地へ降臨したニニギノミコト(天孫)の后である。
懐妊に際して、貞操を疑われたことから証をたてるため、戸のない産屋を建て、周りに火を放って出産したが、無事に3人の皇子を産んだ。また、富士山噴火に際しては、姫の水徳を持って山霊を鎮めたといわれる。

この故事に因んで、家庭円満・安産・子安・水徳の神とされている。
また、木花から桜が神木とされている。


◯猿の神様ハヌマーン

猿の神様ハヌマーン。風の神ヴァーユから生まれたハヌマーンは、怪力と勇気、忠誠心、そして不死の神様として、インドで強い人気を誇る。
数年前には連続テレビドラマ化されて話題になった。また、東インド、ビハール州を中心とした北インド一帯で、その姿をいたるところで見ることが出来る。
偶像化された神様としては、おそらくシヴァ、ガネーシャ、クリシュナと並ぶほどの人気がある。

神話の上でハヌマーンが活躍するのは、インド二大叙事詩の一つ「ラーマヤーナ」においてである。
そこでハヌマーンは、主人公であるラーマ王子の家来として、魔王ラーヴァナによってランカー島に連れ去られたラーマの妻シータを取り戻すため、獅子奮迅の活躍を見せる。

ランカー島に潜入して一度捕虜となったハヌマーンは、その長い尻尾に火をつけられるが、これを振り回して暴れたため、島中が火の海になった。
ハヌマーンは自分の体の大きさを自由自在に変化させることが出来たのだ。

また、ラーマの弟ラクシュマナが怪我を負ったときは、ヒマラヤ、カイラーサ山に飛行して薬草を探すが、なかなか見つけられず、業を煮やしたハヌマーンは、その怪力を使って山ごと引っこ抜き、ラクシュマナのもとへと運んだ。

その後、再びランカー島に潜入したハヌマーンの活躍もあり、シータは無事救出されることになる。
ハヌマーンはこの活躍によって不死の力を獲得し、インドでもっとも有名な神様の一つとして生きながらえることになる。

ハヌマーンを中心とした「ラーマヤーナ」の物語は東南アジアなどの周辺国にまで伝えられた。
また、三蔵法師を守って天竺を目指した孫悟空のルーツをハヌマーンに求める説もある。
「きんとうん」に乗って、空を自在に駆け回る孫悟空の姿は、風の神ヴァーユの流れを汲むハヌマーンの活躍を彷彿とされるものがある。

ところで、ハヌマーンがシータを救出するため潜入したランカー島は、現在のスリランカとされている。 ただし異説もある。たとえば、ランカー島、インドネシア説である。

申のことわざ

◯猿も木から落ちる

意味
どんなにその道に優れていても、時には失敗をすることがあるということ。
由来
木登り名人といわれる猿でも時には木から落ちることもあることに由来しています。同じ意味の「ことわざ」に「河童(かっぱ)の川流れ」、「弘法にも筆の誤り」などがあります。

◯木から落ちた猿

意味
頼みにするところ、よりどころを失って、どうしたらいいか分からない状態のたとえ。
由来
木の上では悠々と動ける猿も、誤って木から落ちてしまうと身動きがとれなくなることに由来しています。「木より落ちた猿」とか「木を離れた猿」という言い方もしますね。同じ意味の「ことわざ」に「水を離れた魚」、「陸(おか)へ上がった河童」、「頼みの綱も切れはてる」などがあります。

◯猿に烏帽子(えぼし)

意味
人柄にそぐわない服装や言動をすること。
由来
猿が烏帽子を被っても似合わないことに由来しています。烏帽子とは昔、公家や仕える人たちの日頃からかぶっていた帽子のようなものです。

◯猿の水練

意味
まったく、あり得ないこと。
由来
猿は泳げないと思われていることに由来します。ですが、基本的に猿は泳ぎの得意な動物なので、これは誤解ですね。この「ことわざ」のあとに「魚の木登り」と続けると、見当違いのことや正反対の行為などを指す「ことわざ」になるんですよ。

◯猿の人まね

意味
考えもしないで、人まねをすること。
由来
猿は何でも人のまねすることに由来しています。ですが、それでうまくいくことはあまりないようです。自分の考えなしに人のまねだけをすると失敗するということですね。

申にまつわる昔話を読む
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